その他日の里寄り道 散歩道 ④ 許斐山のこと
- 更新日:2019年09月27日
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広報日の里2019年10月号から転載
許斐山のこと その1
許斐山は高い山ではない。標高約271mは四塚連山のどれよりも低く、沖ノ島の一ノ岳(約244m)、大島の御嶽山(約224m)を凌ぐ程度です。ただ市の西側、日の里の南にひとり位置し日の里住民に親しまれています。日の里東小学校、西小学校の校歌に詠われており、それは「窓辺には緑の許斐」(東小)、「むらさきにおう許斐山」(西小)とあり、ほかに南郷小学校、中央中学校、自由ヶ丘中学校校歌にも登場します。
この許斐山に中世の山城があり、遺構を見ることができます。山の地形を利用した防御設備の堀切・曲輪・馬場・池(金魚池)・竪堀などの跡を確認できます。
『宗像市史』通史編第二巻の623~628ページには絵図・写真・地形図が示されています。
激戦の許斐山城(許斐岳城)
許斐山城の築城は12世紀と伝わりますが補強をして強固なものになったのは16世紀初頭のようです。この16世紀中頃から史料に許斐山城の攻防が頻出します。激しい攻防の二場面。
永禄2年(1559)立花山(新宮町)の立花鑑載(あきとし)の大友勢が大軍で許斐山の宗像勢を攻め宗像氏貞以下は大島に逃げます。翌春、大島を出て夜襲をかけ許斐山城を奪い返します。天正11年(1583)立花城主立花道雪(どうせつ・戸次道雪)軍が宗像に攻め入り、許斐山を陥とし、氏貞の宗像勢は蔦ケ岳城や白山城に敗走します。立花城と対峙する要害の許斐山城も大宮司宗像氏貞の死後、九州に入った豊臣秀吉の命により他の城とともに破却されてしまいます。
許斐山城の大手門(正門)は福津市八並側で、宗像市王丸が搦手(からめて・裏門)でした。
王丸の信号で国道3号線を渡るとずっと登り坂。突き当たりを右へ行けば駐車場のある公園に。その先が王丸の登山口です。信号から約7、8分。
自宅居間に腰をおろすと間近に許斐山の頂が見えます。数百年前の攻防を想像してみますが、絵が浮かびません。〈船〉