その他日の里命名奇譚
- 更新日:2019年03月01日
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広報日の里2019年3月号から転載
開発から半世紀を過ぎた日の里という地名の由来をご紹介しよう。
住宅公団は昭和30年代の半ば、福岡市と北九州市の中間にあるここに大型団地の開発計画を決めた。鹿児島本線も36年に電化され、両市への通勤者の利便が大きく向上するから、宅地の需要も膨らむであろうとみた不動産業界がいち早く動き始めた。紡績会社の経営者が、一足先に赤間の自由ケ丘に森林都市を着手すると、後れを取らじとばかりに公団も、日の里の開発に着手した。
今でこそ日の里といえば大団地の代名詞だが、それまでは旧東郷村の田熊、久原、村山田などの大字にまたがる地域の一部だった。大小の丘陵がうねり、田畑と農家が散在していたものの、水利に恵まれなかったので、あまり農地としては活用されていなかった。
悪童もこわがる所
末吉興一氏といえば先代の北九州市長を5期20年も務めた方だが、「いやあ、寂しい所だった」と述懐する。幼児のときに小倉から東郷に転居、国民学校3年の昭和18年まで東郷に住んでいた。通学したのは東郷国民学校、今の東郷小学校である。なかなかの悪童で1丁目と2丁目を分ける大通りに架かる橋の上から、通過するSLの煙突めがけて石を落とし、成功すれば悪友たちから拍手喝采を受けて得意満面になった。
「こらー」と機関士に怒鳴られ、学校に苦情を持ち込まれてもすぐにはやめなかったそうだ。
「お寺があるやろ、宝積寺、そうそう、あすこから先は肝試しの場所だった。こわい所だったよ、子どもには」と懐かしそうに語る。2丁目の入り口にある寺から先が児童にはこわい場所だったのだから、開発前の土地の姿が想像できよう。そんな荒れ地がハイカラな団地になり、日の里と命名されるまでにはどのような由来があったのだろうか。ありていに言えば、冗談から駒が出たのである。
冗談から出た駒の命名
公団が開発に乗り出して土地買収にとりかかると、宗像町役場は日野俊哲総務課長が町を代表して折衝に当たった。日野課長のバックアップがあり、多数の地主との話も次々にまとまって、団地のネーミングが話題にのぼるほどになった。課長が「私もここの土地を買おうかな」とつぶやいた。旧宗像町の釈迦院にある寺の住職でもあった人だったが、檀家が30戸ほどしかない小寺でもあり、これを機に新しい地に移り、後半生を養おうと思ったのだ。公団の折衝相手も賛成し、ぜひぜひと勧める。命名で脳みそを絞っている折でもあり、日野課長は「日野が住むのだから日野の里、それでは畏れ多いから日の里か」とつぶやいた。
本人はほんの冗談のつもりで口走ったのに公団職員は飛びついた。「いいですね、日の里、太陽の光を燦々と浴びる新しい団地。これでいきましょう」と声を弾ませた。内部の反応もおおむねよく、日の里に本決まりした。なんとかハイツとかビレッジとかタウンとか、片仮名のついた団地ばかりが流行した当時、土の香りを残した大型団地の名前は異彩を放った。住所を書く際に字画が少なくて済むのも助かる。住民から不満の声も出ない。冗談にしては出来過ぎの命名だった。
「付けてみればいい名前でしたねと、公団の人からも言われましたよ。故人ももって瞑すべしです」と名付け親の三男砂男さん(67)は語る。父の跡を追って宗像市職員として幹部に登用されながら大病で繰り上げ退職したが、健康回復した今は熱心に地域活動を続けている。日の里開発をバックアップし、名付け親であった父俊哲氏は昭和60年に72歳で世を去ったが、計画どおりの大団地の完成をよしよしとうなずいておられることだろう。日の里の名付け親・日野俊哲さん